WEBデザイナー・グラフィックデザイナー安田昌平がネット上に開いた社会のまどの中のブログ

『自己中心的(ジコチュウ)』

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 “自己中心的”は昨今の社会において、必ずと行っていいほど、その人を批判する表現としてしようされるようだ。実際、自分の都合ばかり考えている人に接すると、憤りを覚えるものだ。
 だが、ここでちょっと冷静に考えてみたい。生きている人間の中で自分を中心に置かない人などいるだろうか? さだまさしも歌っているではないか。「自分の人生の中では誰もが皆主人公」と。さらに、懐メロでは「二人の為に世界はあるのぉ〜」という歌さえヒットしている。これらには多くの方が共感できるはずだ。このような価値観を“自己中心的”と呼ばずに何と呼ぶのだろう。

では、なぜ“自己中心的”が批判の対象となるのか?


 人は他の誰にもなることはできない。どんなに視野が広い人間でも、自身の頭、自身の身体以外で何事も行えない。所詮、自己を基準とする以外にないし、それ以外を求めるのは馬鹿げた話だ。そこで、一人残らず自己を中心として生きている考えると、問題は「何を中心とするか」ではなく「自分を中心として何を目指すのか」であることがわかる。なんだぁ! 敵は“中心”ではないのだ。
 その場に生じる利益や、今後予想される利益を独り占め使用とする、あるいは、害になる事柄を自分以外に与えようとする振る舞いを見たときに、世間では「ヤツはジコチュウだ」などという使い方をする。私の少ない経験上からだが、このように利害関係が大きく絡んでいると考える。
 だが、これでは少々言葉の使い方が的を得ていないだろう。この場合“利己主義者”とか“最低野郎!”、あるいは“人間以下だ!”などが然るべき表現のはずだ。ただ、ここで言いたいのは、そんな輩に対してどのような言葉をつかって糾弾するべきかではない。目的はあくまでも“ジコチュウ”の救済である。要は言葉の使い方に致命的な誤りがあるらしい。

 本来、人は自己を中心に、それぞれの立場で活躍するのが正しいあり方ではないのか! むしろ“中心”や“主義”がはっきりしない人間の活躍など、根無し草がたまたま風に巻き上げられた様なもので、甚だ心細い。中にはいかがわしいと言える場合もあるだろう。にも関わらず、自己を中心に据えての振る舞いを恥ずべき事のように言われているのは、明らかに、真っ当に努力する人の心を惑わし、真の成長や真の活躍を阻害する動きだ。このような“自己中心的批判”を断じて見過ごす訳にはいかない。
世の“ジコチュウバッシング”に怒りの鉄拳をお見舞いしよう!
世界の中心は人数分あるのだ! とことん“自己の中心”を認められるならば、他人の“中心”を認められない訳がない。みんな“ジコチュウ”で行こう!

結論●1.『ジコチュウで何が悪い! ジコチュウ万歳!』
  ●2.『あぁ〜、すっきりした!』

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このページは、Yasudaが2001年11月 7日 18:25に書いたブログ記事です。

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